予言の自己成就(R.K.マートン)

ある状況が起こりそうだと考えて、人々が行為すると、

そう思わなければ起こらなかったはずの状況が、実際に実現してしまう。

 

と、社会学マートンの事例を近代の飲み会を例に使用してみます。

 

気になる話し方。

不満を話の種にして、ケチをつける話し方。

「これってこうだからこうじゃない?」

「こういう社会が〜云々」

これこれ!この話し方。

こういう時は

「じゃあさ、それに対して何か行動していますか?」

と聞いてみる。

そうすればたいてい一瞬怯んでもにょもにょ言う人が多い。

「じゃあさ、どうしたらその状況を変えれると思う?」

と改めて聞く。

そうすると、一つか二つか案は出てくる。

その話について、たいてい30分〜数時間討論が始まって。

 

終わり頃の私たちの顔は、団結した穏やかなものになっていることが多い。

 

 

不満や、不安や、目につく対象にケチは出やすい。
だってめっちゃ客観的なんだもん。自分は痛くないんだもの。

でも、それは不満や、不安を基礎にして話をしているから。

その不満や不安を解消はできない。

自分はいつまでもモヤモヤしたものを抱えて生きていくことになってしまう。

だから。

将来どんなモノが自分の思う状況なのかを考える。

それに近づくために、自分の出来ることを考える。

そして行う。

そのイメージの基礎は不満や不安がないから。

自分の不満や不安はなくなる。

 

私は今大学院の研究生になって社会学を勉強している。

社会学を学ぶ最大の利点。

こんな話を権威溢れる社会学者の人のたとえ話を交えると。

人は素直に聞いてくれる点。笑

 

それでいい。

みんなそうだ!って思いたい。
思わせてもらいたい。

自分の思考を論破されたい。

論という科学は納得をくれる。

でも納得だけでは人は行動までは変わらない。
そこにシンクロニティという非科学が加われば、
変わる。


あっという間に変わってしまう。

シンクロニティはどうやったら提供できるのか。
そんなことを最近考えている。
考えていたら勝手に私の周りは、シンクロが広がってるみたいで。
最近みんなのシンクロの話を頻繁に聞いて。
「世の中は狭いもんなんだよ〜」って話になることが多い。

偶然という楽しみに導かれて、みんなでそれを共有する時間が
私の最近のお気に入りの時間です。